9月9日

本番翌日、マルセイユを出発する前に15分だけ観光ができた。ここはマルセイユを一望する、ノートルダム・ドゥ・ラ・ギャルド・バジリカ聖堂。

大きな港街のマルセイユの教会には、航海の安全を祈願した船の模型や船の絵がたくさん展示してあった。

太陽のあまりのまぶしさに、目を閉じないでいるのに必死。
海のそばなのに、風がからっと乾いていて心地良い。

マルセイユ・プロヴァンス空港からパリへ。

パリには遅く着いて、乗り継ぎのため一泊眠るのみ。3月末まで7年間住んでいた元自宅のすぐ近くで一泊した。寝る前に少しだけ歩いてみたが、5ヶ月ぶりでも変わらない日常が流れていた。変わったのは公園に赤い大きな植木鉢と駐輪スペースが現れた事と、、、

落書きアートの絵柄が更新されていたこと。
住んでいた部屋にはまだ誰も入っていないようだった。住み慣れた場所なのに家に帰らないのが妙な感じだ。少しのさびしさと、そばにいても遠くにいても変わらず世界はつながって続いていくという安心感を噛み締めた。
9月10日
翌朝再び格安航空に飛び乗り、ミラノの親友を訪ねた。

イタリアでのチッコリーニ先生のマスタークラスで2010年に出会って以来、毎年同じマスタークラスで学び合い、その後パリでも2年間同じクラスで勉強した仲間。僕よりも先にパリを去っていたのだが、今回幸い帰国便にミラノを経由する格安チケットが手に入り、1年ぶりに再会する事ができた。帰国後の苦労話や、近況報告を兼ねたピアノの弾きあいなどをした後、去年亡くなったチッコリーニ先生がかつていつも好んで召し上がっていたアペリティフで、マエストロに献杯した。話していると、恩師から学んだ事がまた違った角度から立体的に見えてくる。

2015年6月の友人の試験の時の模様。パリ・エコールノルマル音楽院のホール"サル・コルトー"にて。ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番を伴奏した。この学校の試験は予選と本選からなるコンクール形式で、審査員には学外から著名な教授やピアニストが呼ばれ、最上級の課程になると、審査員も受験生も大きな国際コンクールさながらの顔ぶれになる。そこで最後まで選ばれた学生しか修了認定を受ける事ができない。毎年各課程が厳しい試練となっている。
私の受けた2012年のコンサーティスト高等課程修了試験では、この音楽院の演奏高等課程修了か、国際コンクール世界連盟加盟のコンクールでの入賞者という条件でエントリーを認められた16名が受験し、修了証を与えられたのが5名。この時の首席は、浜松国際ピアノコンクールを始め多くのコンクールの覇者でもあるイリヤ・ラシュコフスキー氏だった。この様な環境はあまり外に知られていないようだが、学内にいながら世界中の多様なものすごい才能・演奏にいくつも接することができ、また彼らと交流を深めることができたのは貴重な財産だ。
この伝統ある名ホールや、重要文化財に指定されている歴史ある校舎の、豊かで自然な音響のレッスン室で勉強を重ねられた事(ペダルの概念が根本的に変わった!)、コルトーの所有していたプレイエルのピアノで何度も弾けたことなども、この学校でしか得られなかった経験だと思っている。
(これから留学を考えているという人にとっては、留学先の具体的な様子がとても貴重な判断材料になる事を身をもって経験してきたので、ついでに少し触れてみた。)
9月11日

(↑写真のターミナルの屋上パネルに「ワルシャワ・ショパン空港」と記されている)
ワルシャワ・フレデリク・ショパン国際空港で乗り換えというだけでテンションが上がってしまう。
右手を故障して振り出しに戻る前、ポーランドで勉強することを真剣に考えて準備していたほど、僕にとって特別な思い入れのある作曲家ショパンの国にやってくるといつもなんともいえない厳粛な気持ちになる。
それにしても、ここはポーランドの首都ワルシャワのメイン空港。日本でいう成田か羽田にあたる、国の表玄関だ。そこに名前がついてしまうショパン。ショパンにとってのポーランドと、ポーランドにとってのショパンがこれほどの誇りなのだなと、改めて感激してしまう。

7年前に訪れた時よりも空港がうんと新しく、大きく、おしゃれになっていた。
以前は西側の主要空港で乗り換えが必要だったのだが、最新鋭のB787で東京へ直行できるようになっていた。
ポーランド人のお客さんと乗務員さんに囲まれ、大好きなポーランド語の響きを久しぶりに耳にしながら帰途についた。
翌朝、到着した成田で、偶然同じ便に乗り合わせていらっしゃった、10年以上前にお世話になっていたポーランド語の先生とばったり遭遇し、ご挨拶を交わしながら、色々なところでつながるご縁をありがたく思った。